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精神科医 中井久夫さんの言葉

  • ryuogurikazue
  • 2017年5月30日
  • 読了時間: 4分

最近、中井久夫さんの本を読んでいます。

一貫して、患者の側に立つという姿勢。 回復を引き出すために患者さんをどうみるかという視点。 そして 「だれでも病人でありうる、たまたま何かの恵みによっていまは病気ではない」のだという共感的な態度。

いままでぼんやりと感じていた、私が大切にしたい感覚や態度がここに書かれていました。

響いた言葉を抜粋して記載させていただきました。

中井久夫と考える患者シリーズ2「統合失調症をほどく」 より 抜粋

「症状をみるのではなく、病を被っているその人自身をみる」

「症状に目を奪われないこと、健康的な部分に目をむけること、その症状が発現した意味を考えてみること」

「「症状に目を奪われないこと」とは、症状を見ないことではなく、何が重要かを考えることである。」

「寛解とは、自分を縛っているものがほどける、そういう感じがどこかにあると思います。

  僕は藤の花が山中に咲いているのを寛解と思いあわせたんです」

「何科の患者でも、患者というものは、一生懸命考えて考えていると思う。ガン患者でも認知症の人でも、それは変わらないと思う(それから一般に子どもだ)。認知症の人も暗黒星雲のようなものをかきわけて何かを考えとおそうとしている時があるように私は思う。ということは、裏からみれば、自尊心を何とか取り戻そうとしていることである。私は、統合失調症でも、認知症でも、子どもでも、自尊心の再建が鍵だと思っている。これ抜きでは、介護でもリハビリテーションでも必要な士気が得られない」

「患者になる時は一般に人生において成功や満足が乏しい時が多いように思う。したがって悲観的にものを眺めてもふしぎではない。

多くの人々が「いうまでもなく一時的なことである」と感じていることを「永久に続くこと」と考えやすい。たとえば薬物の作用・副作用。いや誰でも、何も知らされずに地下鉄が駅の中とで止まって灯りが消えれば三十分でも「永遠にこのままであるかのような」不安を抱くはずである、それまでにパニックにならなければ、口が酸っぱくなるほど、折に触れていろいろな事態や障症状の「一時性」を語り続け「それは一時である」ことを告げる必要がある。それは、見えないところで患者を救うものだ。そしてそれを告げること事態、幸いに事態の一時性を高める方に働く」

「一般に患者は「強引さ」と「不意打ち」を嫌う。「指導」という意識をもってするアプローチはまず実らない。ましてや、治療者の威信をかけて「治そう」と力ずくでかかると治るものも治らない。むしろ「治す」などという意識は傲慢であるとして捨ててかかり、自然治癒力を信頼したほうが良いくらいである。

 患者はカタツムリあるいはオジギソウに似ている。われわれは、閉じこもっているカタツムリの貝殻の入り口から棒を突っこむのはただ破壊的だということを知っている。何に安心するのかはわからないが、安全だと思うと、カタツムリはそろそろと頭を出しツノを出す。すこし待ちくたびれたからといって顔をはさんで二度と閉じこもらないようにすればどうなるだろうか。そんなことはせずにしばらく見守っていると、思う方向か否かは知らず、カタツムリは動き出す。思う方向に「指導」してやればよいかもしれないが、そうすればわれわれは「カタツムリはどこへ行きたいのか」という情報を失う。一般に一つ「指導」すれば一つ情報を失うと考えてよい。それにカタツムリはふたたび殻の中へ入ってしまうかもしれない。彼は一般に用心深い。しかし崖っぷちへいってしまうこともあって、そのときは端的に警告し、しばしつまんで安全なところへ戻すのが理にかなっている。

 つまり、緊急介入はありうるのだが、その他のときは、患者がどう感じ何を望んでいるかを行動あるいは言葉のはしばしから汲み取って、患者の後を一歩おくれてついてゆくのがよいと私は思う。「期待される治癒像」という主題の議論がしばしなされるが、私には治療者の途方もない思い上がりのように見える。樹木は無限に高くならないし、そのすべての小枝が伸び切るわけでもない。しかし、光と水と養分があれば、樹の種類に従っておのずと樹容は定まる。時にわれわれは日陰の不毛地で、あまり水も注がないで、枝の剪定ばかりに熱中してはいまいか」

 
 
 

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