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「観音様は笑っている」

  • ryuogurikazue
  • 2017年3月17日
  • 読了時間: 4分

「観音様は笑っている」 この数日間に起こったこと。 まとまりのない文章になると思うけど、自分のために書いておく。

12日にお水取りの儀式を拝観させていただいたその翌日、

「祈りの美」展を見に行った。

展示作品の中に、清水公照さまの書かれたお水取りの様子を描いた絵日記があり、

そこに十一面観音さまのお顔が描かれていた。

そのお顔を見たときに、電撃が走り、その絵の前から動けなくなってしまった。

フリーズした私の脳内ではいろんなことが起こっていた。

二月堂の十一面観音さまは、絶対秘仏なので清水公照さまもそのお顔をご覧になったことはないだろう。 だからそのお姿は公照さまの想像する観音像なのだと思う。 そのお顔の美しく福々しいこと。 笑みが種となって大地に落ち、そのままぐんと芽吹きそうな「豊穣」という言葉がぴったりとくる表情をしていた。 ああ、そうか、公照さまはこの観音さまに向かって祈りを捧げてきたのか、と思った。 お水取りについては不勉強で、浅い知識しかないけれど、練行衆の方々は、お水取りの始まる前から、身を慎み、清浄を保ち、長い期間、大変な苦行に取り組まれる。 その祈りの対象である観音様のお姿。 私の想像では厳しく恐ろしいお顔をされているにちがいない、と思っていた。 こんな美しく可愛らしい、笑みを浮かべた十一面観音さまにむかって(少なくとも公照さまは)、 人の罪や穢れを悔い、祈りを捧げていたのか・・・。 そう思うと涙があふれて止まらなくなって、その絵の前でさらにフリーズしつづけた。 *** その日、家に帰りついてから、自分でも何が起こったのかよくわからなかったのだが、

ともかくものすごい怒りが湧いてきた。

自分が良い人のふりをして押さえ込んできたこと。 嫌われたくない、好かれたいと思って我慢をしたことなどが、 次々と蘇って怒りまくっていた。

血が沸騰して黒くなって血管をやぶってそこから蛇のようにうねうねと外へ飛び出し、

その怒りの対象者を巻きつけて絞め殺すようなくらいの、妄想妖怪と化していた。 (それは結局は私自身に対する、怒りと憤りなんだけどね)

で、じっとじっと自分を見続けてわかってきたことがあった。

私は、私が祈りをささげてきた、私の中に在る神様は、私をずっと厳しい目でみつめてきた。

何をしても認めてはもらえず、どれだけ頑張ってもニコリともしてくれなかった。

ずっとずっとダメだ、ダメだと首をふっていた。

その神様は、神様やなくて、私自身やったのかも・・・と気づいたのだ。

私は、私自身を、心の奥底でずっと批判的な目でみつめ、

ダメなやつだダメなやつだといいきかせ続けて生きてきたんだ。

ここ数年、自分自身の生きづらさを改善するために、様々な勉強をしたり、

自己観察を続けてきて、少しづつ行動や思考の自由度が増してきたけれど、

厳しく私を決して認めてくれない「その存在」が元凶のような気がした。

厳しき者は、きっと元々は母親だったのだろうと思う。

そして成長の過程で、それは何かの先生や目上の方や友人、恋人などに投影されたりもした。

行動パターンとして何が繰り返されてきたかというと、決して自分を認めてくれない人や、

自分のことを大切にしてくれない人に、とりいって頑張って認めてもらおうとしてきたのだ。

その人に認めてもらえた時には、それは本当ではないと離れてしまう。

ずっと認められないと、自分にはやっぱり価値がなかった、

自分はやっぱりだめなやつだったということが証明され、ずっとずっとその人を求め続けるか、あまりに苦しくて離れる。そしてまた新たな認めてくれない人を探す。

そういうことを、ずっとずっと繰り返してきたんだ・・・。

そんな風にして、いろいろな事象が線となって結びついて、自分に何が起きているのか少しわかってきた。

そして決めたことが一つある。 それはこれからは「笑っている神さまのために行動する」ということ。

神さま、というのは、適当ではないかもしれない。

私の中に存在する、その人の顔は笑っていると思うことにした。

私は許されているし、大切にされているし、愛されている。 失敗しても、どんくさくても、役に立たないやつであってもね。


 
 
 

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